神秘劇が扱っているのは、境域に立っている人間達です。 ですから、第一劇は『秘儀参入の関門』というタイトルがついています。 私たちは皆、ある関門/門の前に立っています。 問われているのは、一体、その門を超えることが、その為の力があるかどうかということです。 第一劇ではヨハネスが主役になっています。 そして第一景において、ヨハネスは現代人、20世紀の人間として現れてきます。 彼はある境域体験を持っていました。それは、出会うという形で執り行われるんです。 さっきも言ったように、境域体験、バイオグラフィーを変える体験は、出会いだったり、破局だったり、いろんな思考内容だったりというようにいろいろな形で執り行われます。 ヨハネスは、ある思考方法に出会うわけです。 劇の中では、アントロポゾフィのことを「ある思考方法」という風に表現されています。 この思考方法は彼をすごーく勢いを持って発展に導く、駆り立てるのです。 彼は非常に彼を熱狂させる新しいものを見つけました。そして危機に陥るのです。 彼は新しい何かを見つけたものですから、それまで重要だったことを、彼は置き去りにしたのです。ある因習的な何かを捨てたんです。 そして本当に病んでしまいます。絵も碌に描けなくなってしまうんです。 まず画家として進歩しました。それから画家として全然何者でもなくなってしまう。 これというのは、現代人においては非常に典型的です。何か新しいものを、私たちは緊急に必要としています。 だけど、それは私たちから何かを奪っていきます。 その時、私たちに問われるのは、その古いものを手放す勇気が、あるいは力があるかどうかなんです。で すから、現代人においては、何かを手放すということが非常に大事なことになってきます。 新しい何かを手に入れて、古いものを留めておくことは出来ないのです。 新しいものを何か手に入れたら、古いものは手放さなくちゃいけない。 ヨハネスはそれをやろうとするのですけども、もう何も持っていないのです。劇はここから始まります。 それから、他の人達が登場して来ます。 明らかに他の人達も、皆、同じ状況にあります。 皆、自分たちのバイオグラフィーの方向を変える、あるいは変更する、迫る何かと出会っているのです。 そして皆、不安定になって来ている。 12人の人なんです。皆、その人を危機に陥れたある経験を持っているわけなんです。この経験というか、出会いは、講演ひとつなんです。 この講演で、皆違う体験をしてきまして、この12人以上に異なる人間はおそらく考えられないんじゃないかと思います。 そうであってもひとつの共同体を創っているのです。 ですからこの共同体は考えられる限り、おかしな共同体だと言えます。こ の共同体では、共通の考えというものが人を結びつけているのではないのです。感じ方が人々を結びつけているわけでもないのです。意志においても、皆、全然違います。 霊的にも、精神的にも、全然違う言葉を語ります。魂の面でも全然違うことを言う人達。 つまり、普通の共同体で共通に持たれている何かというものが、ここでは一切ないのです。 神秘劇のこの12人を結びつけているのは、全然違うということです。 皆、自分の危機について話します。他の人と同じ危機を持っている人はいません。 つまり、彼らを結びつけているのは、皆、個人個人、違う問題を持っているということなんです。 皆、道の上にあって、その道は各々の個人的な道なのです。 個人的な道は、皆違うけれども、道の上に立っているということが、皆共通なんです。  ですから、アントロポゾフィもさっき言ったように、普遍的なアントロポゾフィの理念から、個人個人のアントロポゾフィに行かなくてはいけないのです。 ルドルフ・シュタイナーは、ある理想を持っていました。 それは非常に早い時代、1902年にテオゾフィ協会の事務総長になってくれと依頼された時に応えたのです。 ルドルフ・シュタイナーは事務総長になるのですが、彼は一体何を望んでいるのか。一文で彼は応えを言っています。 「私は霊学の弟子を、その軌道に乗せるための力が欲しい」という風に言ったのです。その力を構築していきたいと、言ったのです。 人が一本の道の上を歩み始めるということを望んでいたのです。 叡智は人間が受けとめて、そしてそれによって宇宙と結びつくことに役に立ちます。 だけども道を歩くというのはそれに対して、毎日違う人間になるということなんです。 道を歩むということは、時として間違った道を歩む可能性だってあるわけです。 そうすると、しばらくそこを行ってみると、間違えた道にいるということに直面します。だけども、私が道を間違えたのは、もしかしたら幸運なことだったのかもしれないのです。 最初に意図したのとは違うことをやってしまった。 それによって回り道をすることにはなったけれども、新しい意味を獲得したといことになります。 ですから、誤りもその肯定的な側面を持っているということです。 そして、“本当の真理とは、避けられた誤謬ではなくて、克服された誤謬である”という文章があります。 一つ間違いに気がついて、その間違いを克服した時には、ただ単に叡智を受け取るだけの時より、ずーっとずーっと意味が深いのです。 ここに、一般的な普遍的な叡智だけがあるとします。でも過ちを克服した場合には、「私の個人的な叡智」が獲得できるのです。 そして過ちを克服する時、皆、違う道を辿って行きます。皆、ひとりひとり違う危機を乗り越えて、違う道を歩みます。 そしてその結果として真理が得られたら、その真理は皆を結びつける真理なのです。 ですから、誰もが自分の過ちを克服した経験があるということを望みたいものです。そうすると私たち皆、真理に辿り着きます。 この皆が個々辿り着いた真理が人々を結びつけることになるのです。 危機にいる間は、全然人々同士で結びつかなくて、非常に孤独になります。 だけども、人がそれに対して、肯定的能動的に動き出して、その危機を乗り越えようという風に何かをしだすと、そこに辿り着いた先は、人々を結びつけるものになる。 このことが神秘劇の中で表現されています。まさにこのことが。 皆、この人はこの道を行くんだ、ということが指し示されます。 ですから、神秘劇というのは、具体的なアントロポゾフィを巡っているもので、普遍論ではないのです。 ヨハネスが自分の道を辿っていくところを、私たちは追従することができます。 だけども、それが境域を超える、この道こそが!ということは絶対に言えないのです。 カペジウスは全然違う道を辿って行きます。だけどカペジウスの辿った道もまた、正しいのです。 シュトラーダーも全然違う道を辿って行きますが、それもまた、正しいのです。 ルドルフ・シュタイナーは、“それ故、私は劇を書きたかったんだ”という風に言っているんですね。 “それとしての発展というものはなく、一般的な発展というものもない。 ひとりの人の発展、または他の人、または3人めの発展、4人めの発展、そして千人の人の発展があるだけである。 そして世界に人の数があるほど、発展のプロセスというものはあるはずだ。” 真理への道は多様なんです。だけど、真理そのものはいつも同じなんです。 そして真理へのその道を歩むところでお互いに助け合うことができます。 私たちが出会うのは、真理に到達して初めてではないのです。もうすでに道の上でお互いに出会って、連れだっていくことも出来るのです。 そして、神秘劇自体に、それを観ている人達もすごく刺激を受けるはずなんです。 というのは、観ている人達は、意識的にか無意識的にか、本当は意識して観て欲しいんですけども、舞台に出てくる人物達と自分を結びつけることが出来るからです。 皆さん、本当に舞台に出てきて台詞の述べる人物、一人一人の中に潜り込んで行く可能性があります。 そうすると観ている人の中に、多かれ少なかれ、こういう体験が出来るのです。 それは言葉で言うと、“あ、それって、私にもあるよな”という言葉なんです。私も舞台に立っている、という感じがします。 あそこにいるのは、皆、私と関係のある人達だという風に舞台を観るようになります。 観客が自分自身を役者と同一視すると、彼らはただ舞台にいる人だけでなくて、自分とその存在が同一視されてくるということが起きます。 そうすると人々は、潜り込み始めたと言えます。そしてその道の上にいるように、居始める、立ち始めるんですね。 ルドルフ・シュタイナーは、そのことを意図していたのです。 彼は自分の弟子たちを道の上に乗っけたかったんです。歩ませたかったんですね。 ですから、神秘劇というものは、いつかは現れなくてはいけなかった必然性があるのです。 ここで、日本で初めての上演を観ることが出来るというのは、非常に大きな喜びであります。