さて、ここで話は面白くなって行くんですね。  皆、この人もこの人もこの人も、違う道を歩んではいるんですけれども、そのこと全部をヨハネスは第1景において体験します。  沢山の人が舞台の部屋に集まって来ます。自分の問題について、皆いろいろ言います。 ヨハネスはその背後に座っていまして、ずーっと黙っています。聴くだけ。聴きながら、すごーくすごく沢山のことを体験します、彼は。 しゃべっている人に全く献身してしまっているのです。 「私は先ほどの話の中に現れた人々の内部へも潜り込んでいかなければなりませんでした。 その内のひとりに従って僧院の孤独を味わい、他人の心の中でフェリチアの語る童話を聴き、私は誰にでもなることが出来ましたが、ただ自分自身のみが私から死んだのです。 私の内部で無から新しい人間が生まれて欲しいとしか、望むべきならば、無が存在の起源だと信じられなければ、全てがおしまいだと言いたいくらいです。 私を恐れから闇の中に導き、闇を通ってさらに恐怖へと駆り立てるのは、知恵の語るあの言葉に他なりません。「おお人よ、汝自身を知れ」」(第1劇第2景より) 「潜り込む」という言葉が出て来ました。 潜り込むという言葉が、神秘劇の中では非常に重要な言葉です。 そしてルドルフ・シュタイナーは自分の講演の中で潜り込むということをよく言っているのです。 ルドルフ・シュタイナーは、その研究の対象となった人間を、その人本人よりもよく分かったんです。理解したんです。その理解するということが、潜り込むということなのです。 これは水のエレメントの話なのです。  皆さん、ご存じのとおり、人間はかつて古い時代には、皆、水の中で漂っていました。水が私たちを担っていた。 ですから、今でも水の中にちょっと潜り込むことが出来ます。 以前、カルマという言葉と血縁/血のつながりという言葉は、ほとんど同義語でした。皆、血縁を持っていまして、同じ言葉をしゃべって、同じような考え方をした。 共通の文化を持っていて、人々はそういうところの水/環境で泳いでいまして、そこが居心地がよかったんです。 誰も陸に上がろうという風には思わなかったです。魚は陸に上がったら、自分は窒息死しちゃうという風に恐れを感じます。 それというのは、神話的な道だと言えます。水から陸に上がる動物。 水の中で行っている社会生活というのは、陸で行っている社会生活とは全然違います。 水の中には繋ぐ要素というのが濃厚にあるのです。 陸の上では繋ぐものというのが、もうないのです。あるのは、私たちを担ってくれているこの地面だけ。だけど、これで私たちは繋がれていません。 そして、上にある天。天もちゃんと私たちを繋げてくれているとは言えません。 この瞬間が人間が自我存在になる瞬間なのです。他の存在から分かたれて。それは避けようもない歩みだったわけです。 この道はやっぱり進まれなくてはいけない道であり、それに自分から向かっていかない時には、危機を通過しなくてはいけなくなるのです。 また水に対する憧れというものが生じてきます。だけども、もう一回魚になるということは出来ないのです。 私たちは人間でいて、だけども人間であることを保ちつつも、水の中に沈んで行くこと、潜って行くことへの恐れを克服しなくちゃいけない。 全然違う所作だと言えますね。私は人間で魚には戻らない。だけども水の中に潜って行って、自分を失うことなく居られるということです。 これがヨハネスの危機なのです。彼は他の人の運命のことを聴きました。そして潜り込みました。次の人の運命を聴いて、それに潜り込みました。 水の中では自分では呼吸しません。皆、その人その人の中に皆潜り込んで行きまして、私は一体どこにいるのでしょうか? 「無」です。無が他のものの源でないならば、それは、そこには無しかない。  本当の私を体験出来るのは、私を何物も担ってくれない時だというのです。 他の人の中に潜り込むというこのことは、まずのところ、私に無を体験させます。 そこを通り抜けて自我/自己が目覚めるならば、その時の自己は、2つの対極的なものを結びつけた、1つにした自己だと言えます。 個人的なものと、そして社会的なものを、両方を結びつけた、両方であるような自己。 このことが多くの人達の問題になっています。私は自己人間でありエゴストである、それか、共同体的社会的人間であり私の自己はどこかに行っちゃってる、というような状況に陥りがちなのです。この世界では、こちらかあちらかしかないようになっています。地か水かしかない。 けれども境域の向こう側では、そのふたつは結び合されるのです。その言葉を指して、潜り込むという風に言っているのです。 ですから、この潜り込むという言葉は、神秘劇の中で聖なる言葉です。 本質的な問題は、3つの言葉でまとめられます。「海」と「陸」と「海」です。 こういう風に言った時、私は、科学的な概念のことを言っているのではなく、神秘学的な概念のことを言っています。 私たちは皆、海から生じて来ました。そして今や、多かれ少なかれ陸の上できちんと立っています。まあ、中にはまだ片足を海に突っ込んでいる人もいますけれども。 そして未来において人間はまた、海の中に漂うことになります。 海には2種類あるのです。もう一回言いますよ。神話的な話をしています。 一つは、イスラエルの南の海のことです。これは本当は海ではなくて、大きな湖なんですけども、海という名前がついています。 そして、もう一つの海は、まだ存在しない海です。 ひとつめ、イスラエルの海のことですけれども、『死海』という名前がついています。そこでは、生きている物がいないのです。 何故かというと死海は本当に飽和状態まで塩を含んでいるからです。 けれども死海を非常に尊重している生き物がいます。この生き物は、それは人間です。 死海では魚は死んでしまいます。 人間は何をするのでしょうか。水の上に浮かんで、ぷかぷか浮いているのですね。泳ぐ必要ないんですね、死海ではただただ浮かんでいます、浮かんでしまいます。 あの湖から、あの海から、私たちは皆、生じてきました。 私たちはその時、完全に担われて、運ばれていました。そこでは泳ぐ必要もなかったです。自分で動く必要、全然ありませんでした。 周囲に完全に身を委ねていればよかったのです。 そして、私たちは陸に上がって来ました。進化の次の段階に入ったわけです。 そうすると、どういう風に私たちは動くんでしょうか。半分半分ですね。第二段階でも泳ぐ必要はないのですが、陸にいて立っていればよかったんですね。 けれども動くことが可能です。 そしてまた未来において海に入って行った時私たちは、それは潜り込むというやり方で入って行きます。 「潜り込む」という言葉は、昨日今日の内に、非常に重要な言葉になって来ました。 ヨハネスは人の中に潜り込む。そうすると、またここで水が出て来たんです。 だけどこの水はもう塩気を含んでいる水ではないのです。完全な真水です。この中で生き延びるには、泳ぎが出来なくてはいけません。 この水の中で生き延びるには、常に動いていなくてはいけない。動きをやめた瞬間に沈んでしまいます。 どちらがいいんでしょうか。大抵の人間というのは、動かなくてはいけない時にしか動きません。 ですから、誰かを時々掴んで、水の中に放り投げなくては、放り込まなくてはならない時があります。そうすると、動き始めなくちゃいけませんから、動き始めます。 もちろん衝撃を受けます。そこでショックを受けないためには、その前に泳ぎを習っておかなくちゃいけないわけです。  この水に投げ込まれることというのが、境域を超えることなんです。 公共のプールなんかだと、泳げる人、泳げない人用に分かれていたりします。 泳げない人用のプールは水がとっても浅いんです。そして泳げる人用のプールは水は深くて。 実はわずか数十年前までは人類においても、泳げる人、泳げない人用に分かれていたんです。 まだ神話的に話しています。でも、今日の人類の状況は、この看板が段々となくなってきているのです。 皆さんは気がつかない内に、泳げる人のエリアに紛れ込んじゃっているのです。水に投げ込まれてしまって、そして危機に陥るという状態になるのです。 つまり、運命の導きによって準備が出来ていないのに、境域を超えるということが起きているのです。 自由の時代にあっては、マイナスの自由というのもあるんですね。マイナスの自由、負の自由というのは、“あなたが泳げるか、泳げないかは関係ない”というそういう状況なのです。 その時の“〜〜しなければいけない”というのは、より高次の自由と関係している言葉なんです。私たちは、そのことに気がつかなければいけないのです。 人生においてそういう状況になることが、より少なくなるように。内的な修行が出来ていないという状況は無いように。 この修行というのは、まだ本当に少ししか進んでないかもしれません。けれども私たちは自分自身で責任を引き受けるということをやっていかなくてはいけません。 神話的に言うならば、私たちは泳ぎを習わなくてはいけないのです。 そうしておけば、水の中に突然投げ込まれたとしても、衝撃を受けてアップアップするんじゃなくて、ちゃんと泳ぎ出すでしょう。 そして外的に泳ぐことを習う、ということは、良い準備になるのです。 水の中には自分から動く人間しか居られません。そこでの動きは段々と皆、習っていかなくてはいけないのです。 そうすると新しい社会生活が生じてきます。塩水の中ですべてがぷかぷかと担われているような生活だけではなくて、ちゃんと泳げる人達の生活が始まるのです。   さて、この講演、そろそろまとめて行きますけれども、人々の中で起きていることは、バイオグラフィーの中における神秘劇性です。 各自が自分の各々の危機を通り抜けて行く。そして新しい共同体は、危機にいた人達の共同体なんですね。危機にいる人達の共同体。 そして、神秘劇自体に、皆さん、それを観ている人達もすごく刺激を受けるはずなんです。 というのは、観ている人達は、意識的にか無意識的にか、本当は意識して観て欲しいんですけども、舞台に出てくる人物達と自分を結びつけることが出来るからです。 皆さん、本当に舞台に出てきて台詞の述べる人物、一人一人の中に潜り込んで行く可能性があります。 本当にルドルフ・シュタイナーは言っています。あの神秘劇の登場人物達は、皆、生きた可能性のある存在達だと。 そして実際に劇を書く時に、実際に彼の周りにいた人達から出発して書いています。 そして、そのひとりひとりの人物、皆、ちゃんと完結している存在なのです。 それはゲーテが36歳で原植物を発見した時と似ているのです。ゲーテは言いました。この原植物は自分が考えられる限り最も素晴らしいものだと。 私はこれによって、あらゆる限界なく沢山の植物が創れるという風に。本当に私がまだ知らない植物も沢山あるはずだと言います。 私が創り出す植物は、もしかしたら、現実にはないかもしれないけれども、あり得るかもしれない、あり得たかもしれない植物だということ。 マリアはその状況を指して、「これほど沢山の人々が一どきに話すと、人間の原像がそこに現れて来る」と言っています(第1景)。 それ(人間の原像)とゲーテの原植物が関係してくるわけなんです。 ですから、観客の人が自分自身を役者と同一視すると、彼らはただ舞台にいる人だけでなくて、自分とその存在が同一視されてくるということが起きます。 そうすると人々は、潜り込み始めたと言えます。そしてその道の上にいるように、居始める、立ち始めるんですね。 ルドルフ・シュタイナーは、そのことを意図していたのです。彼は自分の弟子たちを道の上に乗っけたかったんです。歩ませたかったんですね。 ですから、神秘劇というものは、いつかは現れなくてはいけなかった必然性があるのです。 そして、ゲーテアヌムというのは、神秘劇を上演するための劇場なのです。それが本来の姿です。  ここで、日本で初めての上演を観ることが出来るというのは、非常に大きな喜びであります。