司会@: (神秘劇を)観た後にそれを振り返るということで、是非活発な議論になって行くといいなあという風に思っています。 まずはここで話題にしてほしいことを、まず投げてもらったらと思うのです。 出演者A: 是非デーブスさんにドイツでの公演と、昨日今日の私たち日本人が行った公演との違いがかなりあるとおっしゃっていたので、その点については是非触れていただきたいなと思うのが1点と、言葉のことで、日本語とドイツ語の違いで、その違いについてはどういう風に考えたらいいのかという2点についてはこの場で、是非皆さんとシェアしたいと思っています。 出演者B(1景カペジウス): 練習のときから子安さんがいつも言ってくださってたんですけど、私はアントロポゾフィーではないという立場なんですけど、ここで皆さんと一緒に交じって、神秘劇を演じるっていうこと、何も知らない、あまり知らない形の私の状態から、この神秘劇に急にゴーンっと、ガツーンっと入る状態が、今必要なことではないかと、常に問われ/語りかけてくださいましたので、私はそれがつまり勇気になって、ここまでついて来れたっていうのがあるんですが、今だからここで私たちが気づくべきとか、何かこう変わる節目にあるよっていうようなことを昨日デーブスさんもおっしゃってましたけども、何かその踊り場みたいなところに出たのではないか?というような点について、少し洞察を深めていただければなと思ったりしています。 司会@: 今、おっしゃったこと、アントロポゾフィでない人、アントロポーフでない人がっていう点で、実にそれは答えが別にあるわけじゃなくて、そういうシェアリングをね、実はしてほしいなと。 まず自分がどう感じているか?と投げてもいいですか?やってみての体験。 出演者B: やってみての体験としては、関係ないなと。 アントロポゾフィであるとか、ないとかでなくて、ひとつの真理とか哲学とか、そういうものがこの劇の中で展開されていく、いくつかのパターンがあるっていうこと、そしてそれが、どの道を行くかということが問題ではないということの意味っていうのは、ちょっとつかみかけているなっていうのを感じています。 司会@: こういう話が出た時のついでというか、まず、演じた人のシェアリングというのを、ちょっとね、集めたいかなあと思うんです。 出演者C(1景テオドーラ、6景原素の霊(オイリュトミー): 神秘劇に関しては、去年、神秘劇を観に行って、その帰りに階段を下りかけた時に、稲光がパッと落ちて、その後、雷鳴が鳴って雨が降り出して、その時、私、稲光を一瞬見た時に、あ、これからこの階段を皆が下りて行く時に、“これから私たちの神秘劇が始まるのかな”って、そんな感じがちょっとしたんです。 神秘劇って、この劇っていう意味じゃなくて、それぞれの何かが、ここから皆それぞれが帰って行く時に、何かを携えて持って行く、というのがあって、今日、これを迎えて、こういう形になるとは1年前思わなかった、ということで感動と共に。 あと、ここに来るまでに、とっても人間関係が濃くなったりとか、本当に十人十色って言いますけれども、本当にひとりひとり違うってことに、再認識して、それでまた繋がりあう素晴らしさを今回とても感じました。 出演者D(1景マリア): 私は神秘劇のことは深いところまで実は全く勉強が出来ていない状態で、マリア役を引き受けた時に、本当に私でいいんですか?という、すごく恐れ多い気持ちがあったんですが、引き受けた途端に、まるで子どもを授かった時のように、もうこれは、出産するまで私の責任だと、そういう気持ちで、昨日出産いたしました。 最初の一か月くらいは、自分の声でまず台詞を全部言って録音したものを電車の通勤の行き帰りに聞きながら、ずーっと過ごしていたので、その時には、ちょっとマリアの台詞が非常にきついので、それになかなか共感できず、なんかとっても違和感みたいなものが最初は沢山ありました。 ただ、台詞を覚えてしまって声に出して練習することになってからは、なんかとってもマリアの台詞が大好きになって、それは不思議なんですけど、マリアの語っていることは、たとえ言い方はきつくても、真理なんだなと、それが本当に普遍的なことを言っているんだなということが、なんかすごく感動として伝わって来て、それがすごく嬉しかったです。 本当に濃い4か月間の体験で、昨日は帰りにもう練習しなくていいんだと思うと、なんかちょっと寂しいみたいな気持ちになりましたが、もう本当に貴重な体験をさせていただいて、有難かったなという風に思います。皆さんにも是非、こんな体験をしていただきたいなと思いました。 出演者E(1景ロマヌス): 神秘劇という言葉を聞いたのは、去年初めてでして、それはマリア役の大原さんから、こういう勉強会やってるんだよって言う話を初めて聞いた、そこが初めて、神秘劇っていう言葉を初めて耳にしました。そして、今年の1月と3月の諏訪さんの言語造形があるんだよ、皆参加してオッケーだよって言われて、3月参加したら、そこでしっかり役が来てしまった。 ロマヌス…初め分からずにその役が来たんですけども、台詞を練習するうちに、なんかやっぱり受け入れがたいものがありまして、他人としては受け入れられるんだけれども、自分としては受け入れられないか、みたいなところがちょっとあって、でも最後には、練習の度に皆さんの様子を見てたり、いろいろするうちに、1回1回全体も変わったし、自分も変わったなあということを感じました。 今回、2日間参加させていただいて、いろんなことがちょっと理解できて、今までは全部が分からなかったんだけれども、しっかり分からないというところがはっきりして来て、今後そういうことを学んでいきたいなあということを強く思っています。 出演者F(1景もう一人のマリア): 本当に全然知らなくって、 “言語造形があるから、行ってみない?”って言われて、言語造形がよく分からないまま行って、何となくここまで入ってしまった。 ただその最初の時のお言葉が、言葉には力があるんです、思いとか、感情を込めるとかそうじゃなくって、その言葉の力を辿って理解してみませんか、確かそんな感じのことをおっしゃってくださったような気がしてて、そうか!分からなくても、とにかく声出してみよう!って、そんな感じのことで、取り組ませていただきました。 とにかく本当に私にとっては、本当にここで流れる暖かい言葉っていうことで、本当に私にとっては、新宿の所に行かせていただいたところが、本当に暖かいところで、そこに居るだけで心地良かったので、これを演じる演じないじゃなくて、本当にここに参加させてもらって、幸せとか楽しさとかを感じさせていただきました。 一緒にさせていただいた皆さん、ありがとうございました。 出演者G (1景テオドシウス): テオドシウスの台詞がなかなか入らなくてですね、本当に直前の直前まで自分でちょっと解釈をして、言葉が入る形に変えて、本番を迎えられたことは、まあ、ちょうどぴったりだったのかなと思いました。 テオドシウスの役の言葉の中に、“霊は魂の国で安らぐのだ”という台詞があって、その安らぐという言葉は、その直前のシュトラーダーがですね、悩み悩んだ…との掛け合いの中で、その台詞が出てくる。なので、この安らぎという言葉を受け取ることが出来たのは、実はテオドシウスではなくて、シュトラーダーだったんだなっていうことも、なんとなくその自分の解釈をしているうちに見えたりしたもので、それが正しいかどうかちょっと分からないんですけどね。 そんな風な形で自分で解釈をすることが出来ました。 出演者G(1景ベネディクトス): 新宿のグループで、ずっと以前から学ばれ続けて来た中に、今年の初めだったと思うんですが、加わらせていただきまして、まず感じたことは、知的にアントロポゾフィの教義を知的に伝える劇にはしたくない、というか、劇である以上、芸術としていかに人間の感情がぶつかり合い、織り成し合い、そして共に何等かの流れを創って、その流れを形創ることが出来るだろうか。そのために何ができるだろうか、っていうことを考えさせられました。 つまり、私も20年前に、神秘劇には本を通してだけなんですが出会ったんですけれども、ある種の“敬して遠ざける”と言いますか、こりゃ、だめだ。私にとっては本当に理解が難しいものだったんです。 ところが今回参加させていただいて感じたことは、こんなに魅力的なものはない、っていう…。 昨日のデーブスさんのお話で、この神秘劇は、それまでの普遍的なアントロポゾフィから、一人一人のアントロポゾフィへの転換点としてある作品であるということをお聞きしまして、劇においてはそのひとりひとりがどのような立ち方をこれからして行くのか、まざまざと見えるものだと感じました。 その神秘劇を私たちは演じさせてもらって、これから自分達がどのように、これまでのおよそ日本に入って来て30年ぐらい経ったんでしょうか、30年くらい経っているアントロポゾフィの働きといいますか、そういったものが、これからどんな形で一人一人のアントロポゾフィになって行くのかな?もしくは、その一人一人のアントロポゾフィがあるっていうことは、それ以前に日本のアントロポゾフィとは、どういう形で生成発展して行くことが出来るだろうか。 日本語でっていうことは、今回非常に考えさせられまして、恐らくこの4年か5年後に第四劇をやる…やっぱりこう、入って来て暫くは一生懸命模倣しますよね。 恐らく、4年か5年かけてやった後、その後くらいから日本でするっていうことの意味が、ちょっとずつ見え出してくるのではないかな。 そのためにはやり続けていくことがいいかなって思いました。 出演者I(4景ルチファー): ひとことで言うと、演っているうちにその役が好きになったっていうことを一番お伝えしたいかな。 神秘劇に全然、縁を感じていなかったんですけど、わりと無理矢理、人がいないからって誘われて入った感じで、勉強会も全然参加していなかったんですけど、まずやっているうちに、自分の役が段々好きになって、馴染めて来て、そこから初めて自分と神秘劇、繋がりが少しできたというところが、一番楽しかったです。 出演者J(5景ロマヌス): 1ヶ月半の練習だったんですけれども、毎週1回練習があって、それはすごく楽しみで心待ちにしていました。 クラス担任でいろいろありますけれども、その時間は何かこう別の風が吹いて、何かとてもよかったです。 分かっていないうちでも、何かこう日々の生活に作用があるような、そんな気がしていました。 今日本番だったんですが、ものすごく緊張して、舞台に出て行って、なんかものすごく頼りなくて、自分が。 何もない「無」っていうのはこんな感じかなって思ったり、これが境域だろうかとか、人生には危機が何度も訪れるなと、クラスでもしょっちゅう危機は訪れてるんですけども、そういう危機を乗り越える練習を日々するのかなと、今日はその舞台に立つというのも、その一つかなあと思ったりしました。 出演者K(5景ベネディクトス): 本当は藤野は6景7景を希望したんですけども、5景をと言われ、えー、これって、緑の蛇のところじゃない、ラッキーと思ってやらせていただきました。 それとですね、本当はずっと神秘劇、興味あったんですけども、去年の夏にデーブスさんの説明があって、訳がついてるツアーがあるんだって、同僚の熱に誘われて、じゃあやるか!行くか!と思って、行って、それで日本でやりましょうっていう話になって、こう、やることになったんですけど、残念ながらその同僚がですね、今回参加出来なかったんですね。 それは私にとって、そのヨハネスとダブって、5景の導師達がそのヨハネスに力を送ろうとするシーンですけども、その同僚のことを考えてやることが、その単に劇じゃなくて自分にとって祈りの場でもあり、力を送る場になるなと、これは劇の出来なんか関係ない!そういう神聖な時間にしようと思って取り組ませていただきました。 そう意味で神秘劇は単に頭じゃなくて、身近なそのことに置き換えて実感できたのは、とっても良かったなって思います。 出演者F(1景/6景ゲルマン): 第1景のことについてやりますとね、本当に順調に行っても1時間半なので、1景だけで、これに毎回付き合うの大変だなって思ってました。正直言って。 やっぱりどっかで、まだなんか退屈ってイメージが長い台詞があったんですね。 ところが蓋を開けてみて、勉強会はそれはそれとしていいとして、台詞を覚えて来てね、本当にね、マリアとかヨハネスが一生懸命やって、生きた人間の台詞になって出て来ると、聴いてて面白いんですね。これは本当に発見でした。 やあ、神秘劇って面白いんだなって、改めて思いました。 いかに、やはり字面で書かれている文字じゃなくて、生きた人間の魂を通して語られるものが、やっぱり人の心に訴えるかっていうことを、すごくまざまざと感じまして、稽古が面白かったです。 司会A:今日は、誘われたのでやりましたっていう人が、沢山いろいろお話してくださったように思いますね。 自分からやったっていう人も沢山いると思うんですけども、どうも誘われてやってもこれだけ楽しかったらしいっていうのは、沢山出てきたように思いますね。 そして、言葉のことも、皆さんがご興味があるのは言葉のことかと思うんですが、私たちは日本人で、そんなにドイツ語で聞くっていうことが、と、日本語で聞くっていうことを並行してなかなか考えられないので、すぐに自分達がどうだったかっていうのは、言いにくいかとは思いますが、今日の…まあ日本語ですから、一応言ってる言葉は理解できたと思うんですけど、その翻訳された神秘劇を聴いて、耳で聴いてるテンポで内容はどんなでしたでしょうか? そういうことの、分かったとか、分からないというだけじゃなくて、何かその辺の感想のある方、言ってくださいますか? 四国からの参加者:私は、何年前でしたかね、一度神秘劇のテキストの解説というか、入門編の講座を受けたんですけども、まあ大まかなこう骨組みが分かっただけで、全く理解できてなかったんですけど、ま、何か気になっていたので、まあ一生に一度はゲーテアヌムに行ってみたいと思った時に、まあ神秘劇のために造られたんだったら、神秘劇の時に行った方が一番、建物もよく見えるんじゃないかと思って、昨年行きました。 ドイツ語で観ましたので、ま、テキストは予習で読んでったんですけれども、たぶんこのシーンだから、こんなことを言ってるんじゃないかなっていうぐらい、すごく遠い感じですね。 だからこう人物というよりは、なんか遠い景色としてまあ居るっていう感じだったです。 でも、それが昨日の特に第1劇では、もう本当に何人かの登場人物に、もう本当に自分がその中に潜り込んで、あるシーンでは本当にちょっと涙ぐんたり、それからちょっとこう、トマジウスとかシュトラーダーとか、ちょっと、あ、こういう人いるわ!っていう感じで、ちょっとこう反感を持ったり、本当にその目の前にいる生きた人間として体験できて、もう本当に日本語で観れたことが、もう本当にとても、ま、アントロポゾフィに関わって来てよかったなって思うぐらいのすごい体験ですので、是非続きをまた観たいし、その自分が演じて人に見せるっていうことではなくて、神秘劇を理解するために、まあ何かこう自分達の勉強会のグループで、お互いに台詞を言い合ったりするような、まあ読み合わせ会とか、出来たらいいなと思ってます。ありがとうございます。 神奈川からの参加者: 友人に誘われて観に来たんですけど、神秘劇の前知識みたいなものはほとんどない状態で観させていただいたんですけど、テキスト読んだことも、まああるって言えばあるんですが、やはりすごく難解な言葉なので、日本語で書かれていても全然内容は分からず、それが目の前で実際にその人が立って、場面がその場に表れるっていうものを体験させていただけたっていうのは、とても私の中で大きな出来事だったので、こういう取組みっていうのは、素敵なことだなっていう風に思いました。 さっき、その中身がとても難解なことをその演者の方々は、何回も何回も繰り返して身体を通して、稽古なさっているので、そのいろんなことを感じたっていうお話を聞けたんですけど、やはり聴いてる側としては、それを1回聴いただけで、やはり全然分からない…内容っていうことは、やはり分からず、ただそこに注ぎ込んでるその人間の熱みたいなものだけがすごく、伝わって来て、そういうものに魅力を感じたっていうのが、今日の私の感想です。 日本語とドイツ語の違いっていうのは分からないんですけど、日本語っていってもいっぱいあると思っていて、結構難しい言葉で書かれていて、それは日本語なんだけど自分にとっては母国語とは感じられなくて、私はずっと共通語の中で生きてきてはいるんですけど、むしろ、そこ関西弁で言ってくれた方が分かりやすいっていう時もあったりして、どういう風に訳していくか、どういう言葉で台詞を言って行こうかっていう、ひとつの練習の通過点としてでも、そういう方言を取り入れた方が、自分にとっては親しみやすくなったりとかっていうことにもなるなって、思いました。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜(休憩)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 司会@:  休憩の前に出た言葉の響きの問題をね、もちろんデーブスさんに、日本語で初めて神秘劇を観て、その感想を聞きたいという皆さんからのお声もありますので、それを投げていただきまして、まず言葉の特質っていうようなことと関係しているって言う風に言ってるんで、まずデーブスさんにそのことについて、お答えいただきたいと思います。 デーブス氏: ドイツ語での神秘劇をよく知っていて、そして日本語で初めて神秘劇を聴いた人間としては、本当にひとつの冒険だったと言えますね。大きな冒険です。 この時、冒険というのは、非常に大きな霊的な事実がここに提示されたという意味においてなんです。 私たちはね、ここに居る人間だけではなかったんですね。霊的な他の存在も居ました。その存在達のことを、私たちは無意識の内で考えていました。 私は今そのことを、はっきり口で申します。ずーっとここに居たのは、日本語の言葉の、日本語の霊です。 日本語の霊達、つまり何がその言語で行われているかというのは、各民族の言語霊にとって、すごく関心のあることなんです。 私が1回英国で体験したことをお話しします。…そこで、どうしてアントロポゾフィの霊がドイツ語を選んで受肉してきたのかということが、明らかになって来たんです。 …この言語はアントロポゾフィのための器を用意したかったんだ。そして、器となったのだ。 しかし、この言葉を使って、1933年から45年の間にある命令を出したんですね。このSSがこの言葉を使ったことによって、この言語に如何に大きな傷が与えられたかということ。 まあSSとか、ナチの話はいいとしても、とにかくドイツはそのナチに占領されていて非常に暗い暗黒の時代だったということです。それでその時代、本当に愚かしいことに、ドイツと日本は同盟を結んでいました。明るい時代ではなかった。本当に悪の力との関係で言えば、黙示録的な時代だったと言えます。 そういう時には、言語は悩みます。痛みを持っています。本当にそれは外的な痛みであり、霊的にも病んでいます。 この言葉でもって、アントロポゾフィの内容が表現されるというのは、どういう意味があるんでしょうか。 そしてドルナッハで神秘劇が上演されたっていうことは、言語霊にとってどれほど心地よいことものであるかということ。 あの歴史における傷、そしてかたや、霊性の器として言語が用いられるという状況。 そのことは、全ての言語に共通することなんです。 そして今、言語霊、神秘劇によって日本語にある新しい状況が生じているのです。 それは日本語のマントラ的な側面が、要求…ひとつの要求をされているということなんです。 ドイツ語で書かれたことが、日本語に訳されるということが、長いこと為されて来ました。 そうすると、もちろん、その語り手が言っていることは、ちゃんと理解されるでしょう。 まあ本当にそうかどうかっていう疑問は持ちながらでも、やはり訳されていれば、一応理解はされます。内容、訳するということは、もちろん可能です。 それはそれでいいことですが、今や、一段階低いところに入って来ている。 そのことを少し皆さんは、魂の暦を通じでご存じでらっしゃる。日本語で魂の暦がどのように響くか。 マントラ的な言語の性格というのは、内容が分からない方が、良く体験できるのです。その時には言語の音楽性の中に入り込むことが出来るからです。 リズム。“… …”(ドイツ語で言葉を朗誦する)この“アイ(I)”,“アイ(I)”という言語が、音の響きがね、繰り返されるというところに、特別なものがあるわけです。 ここで本当にマントラ的な形において、どういう風に全く新しい翻訳が生じるか?っていう、そういう問いになって来るんです。 それはどういう言葉を選ぶかということだけではなくて、音の響きを選ぶということにもなって来るんです。 神秘劇というのは、この次元で行われるものなんです。思考、あるいは考えた内容だけでなく、言葉そのものに関係しているんです。 このように皆さんが成功、ドラマに入り込む、しかも潜り込むところにまで成功したところでですね、そうすると本当に翻訳に取りかかるという、まあそれを見直すという時期に来たんではないかという風に感じます。 この今回の経験を基にして、それまでは、このドラマはセオリーでしかなかったです。 本当に今、自分で演じてみた人達が一番体験/経験を持っているはずです。 今ね、演じた人達が何を体験したかっていうのは、すごく印象深かったです。本当に観るだけよりか、演じた方がずっといいんです。 その機会にもう1回、訳を見直すということをしたらどうでしょうか。演じた人達はいろんな体験をされましたね。日本語で相応しい表現を見つけるということをね、どういう風に体験されたでしょうか。その時、日本語の言語霊が助けてくれます。そして、この霊的な受肉/受精というものが行われると、こういう形で、本当に言語霊は喜びます。これがひとつの点です。これについて、もう1回、問いありますか。 参加者: っていうことは、ドイツ語が持っているそのマントラのキャラクターに拘ることはないというか、日本語が持っているマントラのキャラクターを探す必要があるということですよね。 デーブス氏: もちろんです。ドイツ語を日本語に持ち込むことは出来ない。 意味はその通りでなくちゃいけないんですけども、だけども日本語の言語からやってくるもの、というものがあるはずなんです。 例えば、日本語でリズムと言った時にどういう意味を持っているのかっていう風に私は問います。 この問いと共に、皆さん、生きて下さい。向かい合い、向き合ってください。 本当にアントロポゾフィ…その道を通してアントロポゾフィになる。 自然は人間に教えて欲しいんです。そしてその答えがメルヘンを語ることでした。ね、第6景で、皆さん今日体験されました。 言語も人間によって教えてもらいたがってるんです。ですから、言語の方からやって来るものは何かという風に、私たちが問いかけて探すのではなくて、私たちが言語に何を与えらえるのかという風に問いかけましょう。 そして、そういう方向で非常に繊細にね、付き合い方をして行くと、今後80年間の間に、日本語はね、すごく大きな変容を遂げるでしょう。 参加者: この神秘劇の歴史は2008年にこの神秘劇をドルナッハで芸術監督やってるジョイア・ファルクが日本にいらっしゃいました。その時にやっぱり神秘劇をドイツ語で上演しました。 で、今、私ね、こうやって日本語で今日聴きましてね、本当にこの辺にあったものが、ちゃ〜んとなんか日本語でやると降りてくる、私たちの中にちゃんと降りてくるっていう感じがすごくしたんです。 で、まあ私なんかもドイツでオイリュトミーやってたんですけども、やっぱりドイツ語でやってますといろんなやっぱりシュタイナーの課題があってね、それを日本語でやるっていうのは、すっごくなんか難しいことに感じちゃうんですね。 で、勇気も要るんですけれども、今日皆さんに本当に勇気いただいてね、オイリュトミスト達も協力して、日本語で神秘劇のオイリュトミーやらなきゃいけないなって思ったのと、…なんかこう神秘劇は上の方にあるんじゃなくて、皆で自分達のものにね、どうやったらしていけるかってことを、この未来、考えていけたらなって思ってます。 デーブス氏: もうひとつ、2つめの問題があります。 ルドルフ・シュタイナーはいつでも具体的でした。抽象的だったことは決してありません。 ですから神秘劇も本当に最高級に具体的な状況の中で起きたことです。2年前であったら、第一劇は全く違うものになっていたでしょう。 それが、最初に行われたのは1910年ですけども、そして1908年だったら、テオドラの姿は全く違った…現れなかったでしょう。 ルドルフ・シュタイナーはいつでも具体的でした。そして劇の人物達も皆すごく具体的です。 そこには、もちろんフェリックス・バルデもフェリチア・バルデも属しています。 彼らは日本には居ない存在達です。いないです。それはオーストリアに居るような人達。 フェリックスもフェリチアも、実はオーストリア人です。北ドイツ人でもない。あそこに生じた/生まれた存在達です。 ですからバルデ夫人がメルへンを語ると、やっぱりあそこら辺の風景が取り巻いている。 でも日本のバルデ夫人は違うのではないかと。名前も違う風につけるでしょう。 ですから、訳をするという問題に、名前を付け替えるという問題も入って来ます。 オーストリア人のフェリチア・バルデの、パートナーというか、日本版はどういう名前なのか…彼女はある自然霊ダイゴしている存在です。 だけども夫のフェリックス・バルデのように、その自然霊に捕らわれてはいないんです。 彼女は既にそこからちょっと身を離していまして、彼女が自然から得るものを知的な人達に与えてあげてるんですよね。 酷い、酷い知的な人達。その人達は自然を破壊するような知的な人達。自分の子どもさえも、破壊してしまったような人達。 そしてそのことによって、彼らはまあ負債を作ったわけなんですけれども。 だから、彼女に負債を負ったのかな、カペシウスなんかに本当はメルヘンなんか語らない方がよかったんですね。 それはでも自然から考えた時なんです。だけども人類の発展っていう観点からすると、彼女がメルヘンを語ったことはよかったのです。非常に両義的な矛盾した状況にあるんです。 そして、それがどういう風に発展したかっていうのを、今日観ましたね、6景で。 これら、この存在、この姿ですか?この役に皆さんが入り込んで、潜り込んでいきますと、そうすると日本におけるフラウ・バルデはどういう姿をしているのかという風に考えが至るでしょう。 自然霊、そして人間/人類の進化、そして自然の破壊です。まあそういった要素も今回から明らかになって来ます。非 常に興味深い問いで、そして今後神秘劇を一緒にやって行く人に皆に、投げかけたい問いです。 このような方法で皆さんが神秘劇とこれから向き合って行くならば、ね、今私たちが触れて来たような問題です。 いつかは皆さん、言うことになるでしょう。“ルドルフ・シュタイナーは、正にこのドラマを日本人の為に書いたんだなあ”と思うことになるでしょう。 それは、私たちが潜り込むことによって可能になるんです。 司会@: この会議はここまででとしたいと思います。 で、ちょっと、これからどうやって、本当に課題というか宿題をもらったというべきか、思うので、なかなか地方からね、集まっている、これだけ人が集まっている時ってなかなかないので、是非ここでこれからどうやって行くかっていう話し合いをちょっと持ちたいなと思っています。 是非多くの方に残っていただきたいと思います。